明源寺の門徒推進委員、いなべ市藤原町在住の梶尾啓示さんより、明源寺報恩講[迦陵頻伽第4回法話ライブ]の感想文をいただきましたので、ここに紹介します。


昨年12月8日、私が門徒推進員を仰せつかるお寺、足下山明源寺(三重県いなべ市藤原町東禅寺)の、報恩講が催されました。11時からお斎がふるまわれ、12時20分から法話ライブを拝聴することができました。この法話ライブは当明源寺が報恩講に迦陵頻伽の名のグループをお招きし、その中心の西脇顕真さんがギター・キーボードの演奏をバックに話されます。昨年は4回目かと記憶していますが、私自身は3回連続で拝聴しました。3回目は病み付きのようになって、すべての用事をそっちのけで出かけました。その内容を思い出すままにご紹介いたします。うまく文章表現できませんでしたが大筋このようでした。あとは話の上手さ、真懸さに感動したしだいです。この西脇顕真さんというお方は、愛知県幡豆郡一色町の普元寺のお方で、西本願寺発行平成18年の大乗4月号の70ページに・・愛されていない命は1つもない、尊ばれない命は1つもない・・・のタイトルで寄稿されています。


「感想文」

法話ライブ迦陵頻伽の西脇さんの父上、普元寺の住職が(老僧)が77歳(喜寿)になられたそうです。父が、77歳になってそろそろお浄土へ行く用意をしようと思い立ち、身の廻りの物を片付け始めました。一番多いのがスーツで、学校の先生をしていた名残でした。私とは体型が全く違うので譲ってもらうわけにはいかないし、また、今の物とではスタイルも違うので、結局処分の憂き目に遭うことになったわけです。こういった日常生活を過ごしながら、或る時、お寺のこととて親しい大勢の人の前で話をする機会に出会い、「儂もな 77歳にもなったし 体も病持ちになっておるで そろそろ浄土へ行く用意と思って身の廻りを片付けにかかったんじゃ」(肺気腫、喘息をもっております)

聞いていた聴聞の一人のお婆さんが、「ごえんさん あんたそういうことをすると如何にも長生きするんじゃ 憎まれ者世に憚るとも言うての」「そうか あんたもそう思うか 儂はそれがねらいなんじゃ」それを聞いたそのお婆さん「もうこの歳になると生きるもよし 死ぬもよし ごえんさんみたいに もっと生きようと言う欲はないわな 死ぬも 生きるも阿弥陀様のお慈悲の内じゃ」このお婆さん、生きるもよし、死ぬもよし、自分のこの後の人生を達観されているようでした。「じゃがなあ スーツやら 何やら 処分することにしたのじゃが 写真だけはあまりに思い出が深くてな 捨てることは出来なんだわ 一枚一枚に何となく未練があってのう」・・・・・古いアルバムめくり・・・・・・・・・

檀家の法要にでかけました。そのお家で、いつも同じ場所でお参りいただく親戚のお婆さんの顔が、その日は見えませんでした。「いつのお参りにも ここに座ってお参りいただくお婆さん 今年はどうされました」お婆さんの代わりに、お参りに来ていただいていたその長男といわれる方が「先日 お浄土へ召されて旅立ちました」休息の時間にお話を伺いますと、「起きていることが出来なくなり寝込んでしまいました。 お医者さんに往信に来ていただき診察を受けましたが、様態を聞きますと「もう長くはない」とのご返事でした。 そこで一番下の弟が「先生 おふくろを抱いてもよろしいか」と尋ねたところ「少しくらいならいいですよ」そう言って帰られました。兄弟が交替で「おふくろ長い間世話になったな」と抱き上げました。長男の私の番になって抱き上げようとすると、私自身の体力がなくなっていて、抱き上げることができませんでした。自分も何かしなければと思い、添い寝ぐらいしか出来ないな と考えておふくろの布団にもぐりこんだのですが、添い寝のつもりが何時の間にか寝込んでしまいました。フッと気がつくと、おふくろが動かない体を使って、一生懸命私に布団を掛けようと引っ張っていました。その時思ったのは、私自身も歳はとっているけれど、親はいつになっても親なんだなと。またいくつになっても我が子が心配なんだ。と、そして明日の命も知れない今の自分であっても」その話を聞いて、親の有り難さ、尊さをあらためて思ったわけです。

野口雨情という人をご存知ですか、日本の童謡の詩をたくさん作られた人です。また日本中を旅して詩を書かれた人です。2曲伴奏だけを聞いて下さい。

7つの子、赤い靴、猩々寺の狸ばやし(ギターとキーボードの演奏がありました)

私もこの赤い靴の歌が大好きで、子供の頃はよく風呂の中で聞かされたものです。それで私も子供と風呂に入っていて、「赤い靴 はあいてた 女の子 いいじんさんにつうれられて 行いっちゃた」「お父さんおかしいじゃないの いい爺さんが何で女の子を連れてっちゃうの いいじいさんなんでしょ」いいじんさん(異人さん)と、いい爺さんの違いが理解できなかったようです。

話は変わりますが、野口雨情が全国を旅して作詞活動をしていたことは最初にお話しました、その作詞活動で徳島にいた時のことです。宿に一通の電報が届きました。自分の生まれて間もないお嬢さんが疫痢という病気で亡くなったとありました。それを読んだ野口雨情は、悲しみ、悶え、その夜降っていた土砂降りの雨の中を走り回り、彷徨い歩き、悲しみました。しばらく経って野口雨情はその悲しみを詩に書きました。今でも歌い続けられているこの歌です。
童謡 シャボン玉 シャボン玉は命、屋根は寿命、風は生命を脅かす何か表現しているのでしょう。特に2番に歌われている、生まれてすぐに壊れて消えたは野口雨情の悲しみが手にとるよう見えます。

1 シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで 壊れて消えた

2 シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 生まれてすぐに 壊れて消えた

  風々吹くな シャボン玉飛ばそ

檀家の仏教壮年会の会長さんに○○さんと言って、お寺の事に大変力を貸して下さった人がお見えでした。4月の初めに初参式と言って、子供さん達を集めてお寺でイベント(詣り、レクレーション等)を行うのですが、その日の朝「お寺さん 悪いけど今日お寺へ行けんようになったわ」「どうしたんです 何があったんです」日常は非常に真面目で、約束を違える人ではなかったので、大事が起きたと直感しました。「実はな 家が火事で焼けてしもたんや」それを聞いて愕然としました。新築して何年にもならない家の筈でした。その以前は質素な家に生まれ、質素な生活を続けて、やっと持つことの出来た新築の家だったのでした。聞くところによれば、殆どが焼けてしまって、手元に何も残らなかったようです。取る物も取り合えず火事見舞いに出かけようとしたのですが、お見舞いとして何を持って行こうか思案した結果、これというものが思いつきません。手元に何もない置き場所もないとなれば今日のところは、と思いついたのが和讃本でした。それをもってお見舞いに行きました。お家は見るも無残な状況で絶句してしまいました。一応のお見舞いを述べて「何か見舞いの品をと思ったのですが特に思いあたらなかったので今日のところはこんな物になりました。」と、和讃本をお渡しすると、「これは何よりです。これを読めば元気が出てもう一度やり直すことが出来ます。」この方は20代からお寺に尽力していただきましたが、土木工事の仕事を持ってみえる関係上外仕事が多く、私が檀家の法事・報恩講を勤めに行った時、外でよく出会ったものですが、「若さん よお詣ってな」と、顔を見るたびに声をかけてくれました。その方のお宅へ伺って詣ったわけではないのに・「よう詣ってな」・て変わった人やな、と若い頃には思っていましたが、どこへ詣っても関係ない、みんな信心の仲間内と最近になって気が付いたわけです。

若い頃から必死に働いて、お寺の為に必死に骨折って、体も酷使したお陰で肝硬変の持病持ちになられてしまいました。肝硬変はガンに転じやすいのですが、火事以来心労がたたって6月に肝臓ガンで入院されてしまいました。お寺も大変お世話になっているので母と二人で病院へお見舞いに行きましたところ、「若さん 病院なんぞ来にくいところへよう来てくれたな 奥さん 腰や膝が痛いのに本当にすまんこってすな」私は母と一緒に行っていたのですが、母が足腰が弱って痛くなっていたのを知っておられたのです。自分の病気の重いのや、苦しいことをさて置き、私や母の身を思って話しをされることに涙が出る思いでした。こんなやさしいお方でしたが、残念ながらそれからしばらくして、お浄土へと旅立たれました。(このお話は単純にしか表現できませんでしたが、涙ながらに諄諄と話されました。バンドの方も貰い泣きでした。)

今日お聞きいただくお話はここまでですが、ここでふるさとを皆さんと歌いましょう。そういえば、私のお寺で子供達を集めて話し合いを催した時のこと、みんなでふるさとを歌ったのですが、「先生 ウサギは食べられるんですか 食べるとうまいんですか」うさぎ追いしかのやま・・・追いし、を、美味しいと思ったようです、その・・・ふるさと・・・です。・・・うさぎ追いしかのやま・・・最後に恩徳讃を合唱して終了でした。




『みちのく』ということばに思う事
副題 山形県の月山(がっさん)登山から『月愛三昧の光明』

浄土真宗本願寺派 足下山明源寺住職 古寺了俊


この文章は、『みちのく念仏 平成18年10月後期(秋冬)54号』の(どうぼうつうしん)の箇所に掲載された文章です。雑誌『みちのく念仏』は、福島県相馬市中村上町 光善寺の松山善昭師が発行されている雑誌です。ご縁があり、掲載していただきました。

昭和48年10月31日、大学の山岳部に籍を置いていた私は、後輩2人を連れて出羽三山の一つ月山登山を思い立ち名古屋を出発しました。噂に聞く『みちのくの紅葉』を、月山にて満喫しようという3泊4日の山行でした。当時の事ですから、東京までは新幹線、東京からは普通列車に乗り込み、東北本線を経由して山形市駅に降り立ったのは早朝でした。山形市駅前からバスにて、月山の麓志津のバス停にて下車。バス停から紅燃える月山の紅葉を楽しみながら登山道を登り、予定の宿泊場所である月山スキー場の管理小屋にて宿泊。

次の日、山頂めざして行動を開始。しかし、スキーリフトの終点あたりで突然天候が急変し雪が降り始めました。途中で、一組の登山者達とすれ違い言葉を交わし、山頂へのルートを確認しました。『東北とは言え、季節は秋だ。たいしたことは無いだろう』との思いから、粉雪の中、ルートに苦労しながら山頂をめざしました。山頂直下にある山小屋を通りすぎましたが、月山はご承知のように、山頂がなだらかで、お椀をふせたような山系であり、降りしきる雪の中で、ルートを見失いがちの中で、危険な状態となり、30分程前に通過した山小屋まで取りあえず避難をしました。山小屋は、みちのくの秋の終わりという事で店じまい。無人でした。入り口は釘等で閉鎖されていました。そこで、申し訳なく思ったのですが、何とか入り口をこじ開けて小屋の中に入り、雪が止むまでということで腰を落ち着けました。

ところが、雪が益々強くなり山小屋から全く動けない日が2日程続きました。勿論、私たちは大学の山岳部部員であり、多少の装備と食料も持ち合わせており、遭難という言葉は頭にありませんでした。しかし、ラジオから聞こえる天気予報を天気図に書いても、山形市・鶴岡市は晴れているのに、なぜか月山周辺だけが地吹雪。今でも理解に苦しむ自然現象でした。水筒の水が凍りつく寒さを、月山にて11月の初めに体験したのです。山小屋の中でも寝袋の表面には霜が凍りつき、厳冬の冬山に取り残されたような状況となりました。

今のように携帯電話・無線等もなく、2日目から3日目となっても吹雪は収まる気配はなく、リーダーとして内心焦りが出てきました。『とにかく、山小屋に居れば、雪も止むだろう。いのちに別状はない。しかし、何時止むのだろうか』。心の中に迷いが生じて来たのです。そのような中で、4日目を迎えた午後になり薄日がさして来ました。濃い靄が掛かった状態で、視界は全く利きませんでしたが、4日間も山小屋にて足止めをくらい、食料は底を尽き、各自の非常食のみの状態でしたので、今が脱出の機会であると判断し、山小屋の使用料として2000円をカウンターに置き急遽下山にかかりました。視界が利かない中でしたから、所々の標識と地図、そして磁石を頼りの下山と成りました。確かに記憶では、谷筋添いにルートがあり、途中から尾根筋をトラバスする形でルートが走っていました。そのトラバスルートを辿れば、そのままスキーリフトの最上部の箇所まで行くことができる筈でした。ご承知のように、東北の山々は裾野が広く、月山とて例外ではありません。視界の利かない中、しかも雪が積もった状態ではそのトラバスルートの取り付き口の発見が困難を極めました。見逃してしまえば、見知らぬ月山の山中で迷子となり、最悪の場合は『遭難』と言う言葉が脳裏をよぎりました。

そんな状態の私達に、突如として吹雪が襲い掛かったのです。善導大師のお言葉をお借りすれば『進むも地獄。止まるも地獄。退くも地獄』です。私達は東北の晩秋の天候を甘く見たのです。山小屋から下山の判断は全くの誤りでした。子供の頃からの山好きで、厳冬期の北アルプスも多少の経験がある。そんな自己過信(驕慢な自力の心)が生んだ最悪の結果でした。あたりは急激に薄暗くなり、山小屋に戻るだけの時間もなく、このままでは遭難は必定の状態となりました。応急処置として、表層雪崩が起きないと思われる箇所に、雪洞を掘り,3人はその中に緊急避難をよぎなくされたのです。コンロのガス・固形燃料等は使い切ってしまっており、暖房は非常用灯りの為に私がお寺から持って来ていた報恩講の朱蝋燭の残蝋(確か、50文目)5本でした。お茶も沸かす事もできる程の火力もあり、3人が身を寄せ合っている雪洞ではそれなりの暖を取ることも可能でした。今から思えば阿弥陀様に救われたようなものです。


しかし、事態は解決された訳ではなく、2人の後輩達も不安と疲労のピークに達しており、自分自身が落ち着かなければと自分に言い聞かせても、心の中で思う事は『遭難死であり、親にも言わず東北の山行に来たが、月山で死んでしまうのか』等の事ばかりでした。雪が降りしきる中で、自分たちの位置が分らないままの行動は遭難死を意味しており、私達の雪洞のビバーク生活も2日目となりました。とことん追い詰められてしまい『何とか脱出できないか』『どうしよう』という心の葛藤の中で、フッと頭に浮かんだのが蓮如上人の書かれました領解文の冒頭の一節『もろもろの雑行雑種自力の心を振り捨てて』のお言葉でした。心にインスピレーション(直感と言うべきか)のようなものが走りました。『そうだ。あるがままに現状を受け入れよう。そして、この月山の大自然に自分達をまかせよう。』そう心に思った時、体が急激に軽く成ったのが印象的でした。親鸞聖人のお言葉を使えば、自力から他力の世界に劇的に横超したという事でしょうか。


そして、3日目の午前3時頃の事です。仮眠から覚めて、雪洞の入り口を見ると外が明るいのです。私は、外に飛び出しました。煌々と照る月光でした。醒めた月光が月山全体を照らしていたのです。下界を見れば、遠く鶴岡市の明かりも、日本海の海岸線も見えるでは有りませんか。私達は、狂喜しました。私達は、月光に救われたのです。直ちに現在地を確認しました。2時間程の下山行動の結果スキーリフトの最上部に辿りつくことができたのです。

私は、下山最中に涅槃経に説かれる『月愛三昧』の話を思い出しました。『月愛三昧』のお話は、子供の頃に御本山前のお店で、今は亡き父が買ってくれた仏教マンガに載っていました。劇的であるがゆえに読んだ内容を鮮明に覚えていたのです。大悲の大導師である世尊は、アジャセ王のために、『月愛三昧』という禅定に入り、御身より大光明を放ち、その光明がアジャセ王を照らし、王を救ったという話です。時と場所は違いますが、時空を超えて月山山頂に懸かったお月様から放たれる月光は、私に取っての『月愛三昧』の光明であったと今も確信しています。深く考えてみれば、親鸞聖人の絶対他力の教えとは、親鸞聖人が若き日に比叡山にて愚直なまでに死にもぐるいの《行》をされた結果であると思うのです。後に、聖人は恵信尼公消息にて『人の執心、自力の信心はよくよく気をつけなければならない』と語ってみえます。それは、伝教大師最澄が山家学生式で言う『国宝僧』を目指し、自力の行にて自らを極限まで追い込こまれ、絶望と挫折の中から出てきた言葉だと思うのです。聖人のひ孫である覚如上人が書かれた『報恩講式』には、比叡山時代の親鸞聖人のお姿を次のように表現して見えます。『蘿洞(つたの洞窟と解釈すべきか)の霞の中に、三締一締之妙利を窺ひ、艸庵(注 艸は草と解釈し、草ぶきのいおりという意味か)の月の前に○伽○祗之観念を凝らす(新撰 真宗聖典・大正12年中外出版1186頁』とあります。

このような叡山時代の行と挫折が有ってこそ、建仁元年の『雑行を捨てて本願に帰す』のお言葉となったのではないかと思うのです。最初から、他力はありけりでは決して無かったのです。ここのアプローチが弱いが故に、物質的に豊かになった豊穣の現代社会では、門徒の皆さんに他力本願の御教えが腹に落ちないのではと強く思う事です。私は、僅か1週間の月山登山ではありましたが、死と隣り合わせる中で、蓮如上人のお文に出てくる『他力の信心』の味わいとは違うと思うのですが、自力と他力の微妙な境を体験する貴重な経験をさせていただいたと思っています。     合掌