はじめに
 平成12年4月8日9日の両日、お同行衆の総力を挙げて厳修されました本願寺第8代宗主・蓮如上人500回遠忌法要。その記念として、明源寺1200年の歴史をまとめた『明源寺の沿革』の発刊を計画していました。
 この度、『明源寺の沿革』第1集として、明源寺略史(上巻)を発刊する運びとなりました。明源寺の歴史は、幾多の困難を乗り越えて偏に『念仏の道場』として、お同行の皆様と共に歩んできた歴史でもあります。
 又、今回の明源寺略史(上巻)の中で、これまでの歴代住職が『いのち』にかえて守り通してきた数々の寺宝を紹介できますことは、住職として望外な喜びであります。初めて公開する資料等も数多く入れました。
 ご縁ある皆様に、少しでも興味を持っていただく為に、カラーコピーを使用しています一連のシリーズとなる『明源寺の沿革』をつうじて、お念仏を相続する大切さを感じていただければ幸いです。     合  掌
浄土真宗本願寺派 足下山 明源寺
第18代住職 古寺 了俊

 

宗祖・親鸞聖人が元久元年(1205年)聖人 (35歳)の時、当時の天台宗東禅寺住職・正導に与えられた御染筆六字名号(南無阿弥陀仏) (明源寺門外不出の寺宝)
この蓮如上人筆の六字名号は、上人の最晩年(1498年)に近江国高宮(現在の彦根市高宮)の惣道場のご本尊として下付された名号。特に、この名号は虎班の名号と呼ぶ。理由は、畳の上にじかに和紙を敷いて書かれたため畳の目が文字に浮き出ているために、虎班の名号と呼ぶ。

 黎明編(平安期)
 平城天皇の大同3年(808年)、比叡山・延暦寺を建立され、天台宗の開祖である伝教大師・最澄法師が、仏法を広げられるため、当地に御逗留となり、薬師如来を本尊とし観音菩薩を脇侍として、一寺を建立され、足下山(たしたさん)円頓院(えんどんいん)東禅寺と名付けられました。明源寺の根本資料である『明源寺由緒書』によれば、東禅寺の規模は、七堂伽藍を完備した寺院で有ったとあります。その後、伝教大師・最澄は、東禅寺を弟子の正道に譲られ、東国布教の旅に出られました。東禅寺は、歴代天台宗として相続されました。同じような伝承が、藤原町坂本の聖宝寺にも伝わっており、大いに注目されるところです。聖宝寺の寺伝では、大同2年(807年)に伝教大師・最澄法師により建立されたとあります。東禅寺の各地に、大門・比丘尼井戸等が古代寺院を物語る地名が残っていますし、現在も、五輪塔の石が字(あざ)寺山(江戸期の書物には天台山とも書かれています)には苔むしています。平成11年(1999年)に、寺山の発掘調査が藤原町教育委員会の手で実施されました。今までにも、太平洋セメント(旧、小野田セメント)の拡張工事の際には、東禅寺に関係すると思われる数々の遺品が出土しています。昭和46年には寺山東斜面で多くの五輪石等が出土し、一部が東禅寺御厨神社に存在しますし、同年の10月には北東斜面で骨壺が10点余り出土しています。古瀬戸焼き・常滑焼きの壺であると説明されています。壺の一部は、藤原町教育委員会にて保存展示されています。
東禅寺寺山所有者清水三之氏墓地
周辺で出土した五輪塔
東禅寺寺山に残る五輪塔上部
(この五輪塔上部には梵字が刻み込まれている)

今回の調査発掘は、現在は杉の木立に覆われていますが、元は伊勢田と呼ばれた水田跡であり、地表面を削った結果、掘立柱の跡が発見されています。堀立柱の直径は60センチ〜80センチとかなり太い物であります。 発掘調査にあたられた清水弘之氏の報告書(ふるさとの心をたずねて第二十号藤原町教育委員会発刊)によれば、「今回の推定地の近辺での調査によって確認できた遺構は、時期的にも規模からしても東禅寺廃寺に関するものと思われ、調査の成果は大きいと考える。(略)発見できた堀立柱の遺構は、その柱穴の大きさから判断するに、かなり大規模なものであると思われるが、当調査区内で確認できた限りでは、堀建柱建物であるのか、門・柵あるいは塀に相当するものであるかの確定は困難であり、隣接地における今後の調査によって遺構の全貌が明らかになるまで結論を待つしかない。」と結ばれています。
鎌倉編
 明源寺由緒書によれば、元久元年(1204年)の頃、東禅寺住職は親鸞聖人に帰依し、聖人より法名を正導と与えられました。この時、親鸞聖人から正導は、聖人染筆の金泥文字で書かれた六字名号(南無阿弥陀仏)を授かり、この六字名号は現在も明源寺門外不出の寺宝として伝えられています。
 正導は、帰洛後、東禅寺の本尊である薬師如来と脇侍の観音菩薩を小堂に納め、薬師堂(観音堂とも称した)称し、阿弥陀如来を本尊として安置しました。この薬師堂は、江戸後期に桑名藩に提出した明源寺関係の書類の中でも、明源寺に付属する建物の中で、境内地外の建物として『観音堂』と明記されておりますし、又、このことを裏付ける資料として、寛政元年(1789年)に往生しました明源寺第9代住職の怒正は、死の直前、過去帳の裏書きに次のように書き残しています。『本願寺に帰依し、9代過ぎるといえども、小堂に納めたる観音・薬師、我が、先祖菩薩のために夢おろそかにすべからず候』と書いています。 延慶2年(1309年)、親鸞聖人の直弟である顕智上人(けんちしょうにん)は、三河念仏発祥の地である三河国矢作川河畔の柳堂妙源寺より、仏法有縁の地である東禅寺に立ち寄られました。
 三河国矢作川河畔(現在の岡崎)に建つ柳堂は、親鸞聖人が関東から帰洛される時に足を留められ、お念仏の布教をされた場所として有名です。後に、関東から聖人のいらっしゃる京都への道筋として多くの直弟たちが足を留められ、念仏の布教にあたられました。特に、下野国高田門徒の総師である真仏上人の命を受けられた顕智上人は、三河国矢作川河畔の薬師寺に1ヶ月近くも留まり、念仏の布教をされました。(三河念仏相承日記より愛知県岡崎市上宮寺蔵)又、伊勢真宗の発祥の地として名高い鈴鹿市三日市の如来寺・太子寺の縁起(えんぎ)でも、顕智上人のご教化により、伊勢の地に浄土真宗が誕生したと述べております。
 縁起に曰く、「勢州(三重県)各地を教化され、(略)かくて三日市は他力念仏の中心道場と成り、伊勢地方の真宗発祥の地として今にいたる」と有ります。正しく、如来寺・太子寺の2堂並列の形式は、親鸞聖人以来、原始真宗教団が熱烈に持っていた聖徳太子信仰を、今に伝える貴重な様式であり、真宗寺院成立の原点でもあります。今でも真宗寺院の内陣余間(よま)に聖徳太子の御影(ごえい)をおかけするのは、その名残であります。
 さて、顕智上人は東禅寺に御逗留中、一体の阿弥陀如来像を刻まれました。この阿弥陀如来像の背後には、延慶2年(1309年)顕智謹作と刻まれています。この像は、歴代相続され、現在も明源寺庫裡お内仏ご本尊としてご安置しております。

顕智(けんち)上人作、阿弥陀如来像(像高27センチ)。
  如来像背後に、延慶2年(1309年)顕智勤作と刻まれている。この延慶二年という年は、顕智上人の亡くなる前年にあたる。顕智上人は、親鸞聖人の高弟であり、聖人没後真宗教団の事実上の指導者であった。 
 また、顕智上人の地盤は、下野国(現在の栃木県)の高田にあり、 ここに親鸞聖人が建てられた専修寺を中心に、真宗高田派を形成した。彼、顕智上人はその二代目にあたる。そして、東海地方にも三河の岡崎にある柳堂・妙源寺(みょうげんじ)を中心にして、顕智上人はその布教の中心となり、お念仏の種を各地にまかれた。その中で、妙源寺の系統を引くこのお寺に、上人作の阿弥陀如来像が伝わった。 
 なお、この明源寺伝来の寺宝『阿弥陀如来像』は、藤原町史の見開きにも写真にて紹介されている。

顕智上人は、親鸞聖人直弟の中でもご長命であり、聖人没後47年余り経過した延慶2年当時は、誕生間もない原始真宗教団の最有力の長老でありました。上人は、延慶3年(1310年)にご往生されています。上人が、一体の阿弥陀如来像を刻まれたのは延慶2年。時間的には問題有りませんが、ご往生をどこで迎えられたのかが問題となります。
ここに、三日市の如来院・太子院に伝わる不思議な伝承があります。恩愛会(おんないえ)の伝承です。
 縁起曰く、「顕智上人は、化生(けしょう)の人。延慶3年旧7月4日、常の如く如来寺にてねんごろなる説法をされ、日没にいたり、村の南端の一ツ橋を最後にお姿がわからなくなった。村人は悲しみ念仏をとなえながら雨の中をお捜ししたが、ついに行方を見つけることができなかった。今日に至るまで、村人達は8月4日夜、恩愛会(御身無会)と称し、傘ぼこ、燈ろうを持ち、鉦(かね)をたたき、おんない念仏をとなえながら夜を徹して上人のお徳をしのびおさがしする原初的な仏教行事を営んでいます。」とあります。
 この縁起には、大変重要な事が書かれています。顕智上人ご往生の地が、下野国高田の専修寺(高田門徒の本山)ではなく、ここ鈴鹿市三日市であったこと。しかも、何か大変な事が起こったこと。それを縁起では、化生の人と表してします。化生の人とは、必ず浄土に生まれる人を言います。この場合、突然姿が見えなくなったのは、浄土に往生されたからと理解すべきでしょう。
 高田門徒の伊勢布教の拠点であった三重県の鈴鹿市で、顕智上人が姿を隠されたという伝承、しかも明源寺庫裡に安置申し上げる阿弥陀如来像の製作された延慶2年とは、一年違いの出来事であります。このことは、明源寺の伝承を、寺伝によくある作り事であると一笑に付す事はできないものと考えます。
 真宗高田派は、現在三重県津市一身田に、本山・専修寺が存在しますが、本来は栃木県二宮町高田にありました。寛正6年(1465年)に、高田教団第10世の真慧(しんね)上人が、寺基を現在の地に移されたことによります。そして、本願寺教団に第8代宗主蓮如上人が出られ、本願寺教団の教線を大発展させるまで、下野国高田の専修寺が浄土真宗の本山と思われていました。
 三河念仏相承日記の、貞治3年(1364年)9月2日の箇所を見ますと、「三河ヨリ高田ヘマイルヒトビトノ事」が出ており、高田が浄土真宗の聖地と考えられていた時代が有ったのです。
 そもそも、親鸞聖人の20年に及ぶ関東での念仏布教の拠点となったのは、従来から指摘されていますように関東各地に点在した小さな如来堂(善光寺如来)と太子堂(聖徳太子)でありました。 真宗高田派教団も、下野国高田にあった如来堂から出発しております。
高田専修寺の寺伝では、嘉禄2年(1226年)に、親鸞聖人が三国伝来(三国とは、インド・中国・朝鮮)の伝承 を持つ信濃国善光寺の一光三尊の阿弥陀如来を感得して、親鸞聖人直弟の真仏上人により創建されたとあります。
 顕智上人は、真仏上人の後継者であり、お二人とも親鸞聖人の免授の弟子でありました。免授の弟子とは、親鸞聖人から直接教えを受けた人物をいいます。
 このように、高田派教団は極めて善光寺如来信仰が盛んでありました。この事は、親鸞聖人の信仰体系にも深く関係するところであります。
 阿弥陀一仏による絶対他力の救いを聖人は説かれましたが、生涯に渡って、聖徳太子・善光寺如来に対しても敬いの心を持たれていました。このような理由で、親鸞聖人没後の原始真宗各門流も善光寺如来信仰が盛んであったのです。
 この当時、浄土真宗各門流の中で、本願寺教団の優位性に心血を注がれた本願寺第3代宗主・覚如(かくにょ)上人をしても、善光寺如来信仰を無視することはできませんでした。覚如上人が、お作りいただき、親鸞聖人の御生涯を記録され唯一の公式記録である御伝抄(ごでんしょう)の中で、この書物の上巻、第8段・定禅法橋の夢想の事として「善光寺の本願御坊これなり」と、親鸞聖人を善光寺如来(阿弥陀如来)とダブらせて書かれています。
  そして、善光寺如来信仰(一光三尊の阿弥陀如来)が特に強かった高田派教団では、古い高田派教団の寺院には「善光寺如来絵巻・聖徳太子絵巻」が伝えられている場合が多いと(高田本山専修寺展 歴史と美術 専修寺一信仰と歴史と文化より)されていますが、明源寺にも善光寺縁起絵巻(二巻)が伝えられています。
 このように、明源寺は天台宗東禅寺として出発し、顕智上人のご教化の影響で、三河国桑子(岡崎市)の柳堂・妙源寺の支配下にある念仏道場として道を歩んだようです。そして、本寺の妙源寺の関係から、明源道場と名乗りました。天台宗から、真宗高田派に転派したもう一つの大きな理由は、江戸期の文献(員弁雑記−1844年発刊)等にも再三再四書かれてあるように、後醍醐天皇による建武の中興と、その後に続く南北朝の混乱により、天台宗東禅寺は寺領等を失い、大きく衰退したことも大きな理由でした。なお、現在は伝わっていませんが、員弁雑記によれば、明源寺の箇所に「天台宗の法衣、今も在す」とあります。


室町・戦国編
 真宗高田教団に属していた明源道場が、何時の頃から本源寺教団に転派して行ったのでしょう。員弁の歴史散歩(昭和54年発刊)という郷土誌には、永享年間(1429年〜1440年)であると書かれていますが、明確な事は解らないのが実情です。
 しかし、本願寺第8代宗主・蓮如上人のご活躍により、各宗派が雪崩を打つように本願寺教団に転派した15世紀後半であることは事実であると考えられます。
 蓮如上人と北伊勢の関係は、享徳元年(1451年)に鈴鹿山脈の八風峠(一説には石ぐれ峠)を越えられ、北伊勢のご教化をされたことは石ぐれの照光寺縁起等で有名な話です。
 照光寺縁起には、「この年、蓮如上人は鈴鹿の峰を越えて、石ぐれの照光寺にて、里人をご教化になり、その後、丹生川村の瀬古平兵衛(丹生川鴨神社神宮)の案内で、員弁川を渡り、北勢町中津原の行順寺に到着され、ご教化の後、養老山系を越えて、三河に向かわれた」とあります。
 この時、蓮如上人のご教化により、各宗派から本願寺教団に改宗したという寺伝を持つ寺院は、北勢地方には少なからずあります。
 明源寺の場合、本願寺にこの時に帰依したとは断定できませんが、現在、明源寺第1世と数えている正道(しょうどう)は、近江国にて本願寺の念仏に帰依したと口伝されています。

 
では、明源寺が本願寺と正式に関係を結んだ事を確認できるのは、何年なのでしょうか。それは、天文6年(1537年)7月の事です。明源寺第3世・存正の時代でありました。勿論、便宜上明源寺と書いていますが、この時代に明源寺の寺号(じごう)を持つ筈はなく、正式には明源道場の時代でありました。
 
又、妙源寺第何代と書いていますが、これは明源寺が所蔵しています。明源寺系図によります。この系図は、江戸中期の寛政年間(1789年〜1800年)に作成された系図であります。この系図は、本願寺に帰依して何代目という数え方をしています。天文6年(1537年)7月3日に、明源寺第3世・存正(ぞんしょう)は、本願寺第10代宗主・証如(しょうにょ)上人より、阿弥陀如来絵像(方便法身之尊形)と巻子本御文章(かんすぼんごぶんしょう)をお受けしているのです。

本願寺第10代宗主・証如上人下付の阿弥陀如来絵像(方便法身之尊形)天文6年(1537年)7月3日の裏書きがある。明源寺第3代存正の時であった。 明源寺蔵
証如上人下付の阿弥陀如来絵像の裏書き部分。この裏書きにより事実であることが証明できる。 明源寺蔵

  本願寺からお受けする方便法身之尊形(ほうべんほっしんのそんぎょう→阿弥陀如来絵像の事)や絵像類には、必ず本願寺宗主の署名と花押(かおうと読み、今日の印鑑に相当し、本人であることを証明する本人独自のサイン)年月日・所付・願主名の順に記された定型の「裏書」が張られます。
  所付とは通例「○○寺門徒□□□寺下●●国△△郡▲▲村」と記され、最後に願い主である願主名が記されました。願主は、ほとんど地方本寺に所属する末寺・道場坊主でありました。天文6年(1537年)に、明源寺第3代・存正(正式には、明源道場坊主)がお受けしました方便法身体之尊形も、その一般的形式を踏んでいます。

 

 この裏書から、大変重要な事が判ります 所付の興正寺(こうしょうじ)門徒とは 蓮如上人のご活躍により、急速に教団を 拡大した本願寺教団に、他宗派から帰参 者が相次ぎました。その代表的なケース が、かって本願寺をしのぎ繁栄をほしい ままにしていた真宗仏光寺派の場合です 第14世経豪(きょうごう)上人は、蓮如上人を慕い、文明13年(1481年) に仏光寺派の有力幹部42人と共に本願寺に帰参しました。蓮如上人は、ことのほか喜ばれ、経豪に対して一門待遇とし、本願寺の下に興正寺を起こされ、従来の支配を任せましたこの興正寺を指します。阿弥陀寺とは、現在の法盛寺の事です。法盛寺は、江戸期を通じて、本願寺派(西)の北勢地方の中本山でした。桑名市史によれば、法盛寺は16世紀の中頃まで阿弥陀寺と名乗っていたとあります。しかし、阿弥陀寺の事は全く資料等も散逸し、事実上まぼろしの寺でありました。今回、阿弥陀寺の名前が入った裏書を公開したことは、まぼろしの寺、阿弥陀寺が、16世紀に員弁郡に存在した事を証明する非常に貴重な記録であります。 
  そして、なによりも大切な事は、明源寺が天文6年(1537年)には、本願寺に確実に帰参し、今日まで500年間、念仏の道場として、幾多の困難を乗り越えて維持されてきたことです。 更に、証如上人よりお受けしている御染筆の巻子本(かんすぼん)御文章ですが、全国的に見てもほとんど残っていません。極めて貴重な御文章と申せましょう。 御文章(東では、お文)は、蓮如上人が全国に出されたお手紙を、ひ孫にあたる円如上人が集められ、現在のような御文章となりました。 
  しかし、当初は、現在のような製本された御文章として門徒に下付したのではなく、必要に応じて数通を選びとり、時の宗主が証明の意味で花押をした『証判御文章』として出されていました。
 そして、次に登場するのが『巻子本御文書』です。この御文章は、書き始めてから、次々と巻いていき、最後の部分に宗主名と花押を押す形式の御文章です。この『巻子本御文章』の段階に入り、『御文章』は本願寺歴代宗主が直接下付する権威ある書物となります。蓮如上人のみ教えを学び広めるため、更に、自分が直接、本願寺とつながっている示す権威の象徴として、寺・道場の坊主たちは争って御文章を求めたとあります。

 

 


  この天文6年と、年代が明記された『阿弥陀如来絵像』と『巻子本御文章』が持つ重大な意味を明らかにしなければ成りません。
  それは、1570年に始まる織田信長と本願寺教団との間で戦われた凄惨な一向一揆(石山戦争)を乗り越えて、今に伝わったという事です。特に三重県北勢地方は、3年間に及ぶ長島一向一揆を戦っています。この戦いの最後は、3万とも言われる門徒衆が、織田信長の騙し討ちにあい、焼き殺されています。そして、北勢地方の寺院・道場は信長の軍勢にことごとく焼き払われ、それ以前の宝物類・書籍類はほとんど残っていないのが実情です。
  そんな中で、守り伝えられた『阿弥陀如来絵像』と『巻子本御文章』は、明源寺歴代住職と門徒が、自分の『いのち』よりも大切なものとして認識し、今に伝えたものである事を決して忘れてはなりません。



一種の城郭寺院の構えを持つ明源寺
明源寺は、山号の足下山の起源と成った多志川の河岸段丘上にあり、寺の前を巡検街道が走っていた。江戸期においては、加納藩領の治田を監視できる立場にあつた。