普門寺の沿革

普門寺は開山から1300年。
源頼朝公や徳川幕府の保護を受けた歴史もあり、
市内最多の文化財を所蔵する、自然豊かな豊橋のもみじ寺です。

本堂・大師堂

仁王門

普門寺の開山

当寺は、 奈良時代神亀4年(727)に行基によって開山されたと伝わっています。
天文3年(1534)成立の『普門寺縁起』には、次のような伝承が記されています。関東に向かう途中で当山に登った行基が、この山の地景を奇特に感じ、寺院草創の志を抱き修行をしていたところ、観音様が姿を現して「山の形にちなんで山号は「船形山」、観音様にちなんで寺号は「普門寺」と名付けよ」とお告げをされました。行基はその観音様の姿を自ら彫り、このお告げの内容を聖武天皇に報告したところ、堂塔建立が命じられて普門寺が開創されることになりました。普門寺は天智天皇彫刻の五大明王を本尊とする「東谷」、観音様を本尊とする「西谷」からなり、聖武天皇は尊勝峯(神石山)と雨応峯(雨応山)から見渡せる範囲を寺領とした、といいます。
豊橋市教育委員会によって平成16年(2004)から行われた学術調査によれば、裏山の船形山山腹にある「元々堂址」の本堂跡からは10世紀半ばの遺物が出土しており、また本尊聖観音菩薩立像が11世紀、菩薩形立像が10~11世紀の彫刻であることが判明しており、普門寺の成立が古代に遡ることは確実視されています。

中世普門寺の中興

『普門寺縁起』によれば、古代の普門寺は3000余りの坊舎を抱えて繁栄しましたが、嘉応年中(1169~1171)に比叡山に攻められ焼失し、次いで養和年間(1181~1182)に源頼朝叔父の化積上人によって中興された、といいます。
今日残されている国指定重要文化財などからも、平安時代後期に普門寺が大きく生まれ変わったことは疑いのないことです。久寿3年(1156)には僧勝意によって経塚が造営され、平治2年(1160)には高松院(二条天皇の后)より下賜された梵鐘が、地域の人びとから奉納された銅を加えて再鋳造されて奉納されました。永暦2年(1161)には僧永意によって新しい普門寺の発起文ともいえる「起請」が定められました。平安時代後期、普門寺は新しい村々を形成した地域住民によって、地域社会の自立と結集の拠点として再生されました。
鎌倉時代には山麓の雲谷、岩崎を中心に一部は遠江に及ぶ広大な寺領を有しており、とりわけ雲谷などは普門寺の「境内」とも認識されるなど、中世の普門寺は山麓の地域社会と密接な関係をもって存立していました。一方、『普門寺縁起』では源頼朝公が平家追討の祈祷をして、頼朝公と等身大の不動明王像を造ったとの記述があります。平家滅亡後、頼朝公が上落する際には普門寺に立ち寄り多くの寺領を寄進され、寺門興隆し三河七御堂の随一と言われたとの伝もあります。実際に当時の文献にも鎌倉幕府から厚い保護を受けていたことを窺わせる記録もあります。
船形山山腹には200か所以上の人工の平坦地があり、多くの堂舎や坊院を抱えていたと考えられ、当時の隆盛を偲ばせます。とくに大きな平坦地である「元々堂址」「元堂址」はともに平安時代後期に大がかりな整備が行われ、現在も本堂跡の基壇が残されています。それぞれかつての普門寺を構成した船形寺(西谷、本尊聖観音菩薩)と梧桐岡院(東谷、本尊五大明王)に相当すると考えられています。

戦国・江戸時代の普門寺

このように隆盛を誇った普門寺でしたが、戦国時代になると、今川氏や戸田氏、牧野氏ら近隣の武士の争いに巻き込まれ、永正14年(1517)には裏山に築かれた船形山城をめぐって今川氏と戸田氏が争っています。(船形山合戦)。そして天文2年(1533)には兵火のため全山がことごとく焼失してしまったといいます。
しかし戦国時代から江戸時代前期にかけて、かつての隆盛をとり戻すべく復興が行われました。1540年ころには、普門寺復興と地域社会の再結集を祈念して、船形山合戦などの一連の戦乱の戦死者を含む大規模な共同供養(三界万霊供養)が行われています。東三河・西遠江の広い範囲の地域から奉加者・供養者が集まり地域社会の結集拠点として普門寺の再生が目指されました。
その後も今川氏や徳川家康、池田照政(輝政)など代々の領主の保護を受け、少しずつ復興が進められました。慶長8年(1603)には再中興の住持・龍祐のときに寺領朱印地100石が徳川家康より与えられています。そして17世紀後半の住持日誉・昶深のときに、仁王門、本堂など大規模な造営も行われて、ようやく今日につながる基本的な寺観が整えられるに至ります。以来、観音霊場、源頼朝公所縁の地として、また江戸時代には桜名所として、多くの参詣客を集め、厚く信仰されてきました。

普門寺の将来

二度にわって大きな火災に遭ったにもかかわらず、普門寺には仏像、工芸品、古文書など貴重な文化財が多く伝えられ、船形山の旧境内遺跡と合わせて、中世山寺の代表的な遺跡の一つとして学術的にも注目を集めています。
今日、紅葉の名所として知られる普門寺では、こうした豊かな歴史文化と自然環境を継承し、観音霊場としての信仰を守りながら、地域文化の拠点として新たな一歩を踏み出しています。

*この沿革は、 豊橋市教育委員会によって平成16年(2004)~平成28年(2016)にわたり普門寺を総合的に調査して頂いた成果を基にして新たに書きました。

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